岐阜大学教育学部理科教育講座(地学)
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ノアの洪水仮説をめぐる論争
7000年前に地中海の海水が黒海へ洪水のように流れ込んだのか?
2004年10月26日

 まず世界地図を広げて地中海と黒海の配置をご覧いただきたい。黒海は陸に囲まれた内海のようになっており、細い水路のようなマルマラ海によってわずかにエーゲ海へとつながっていることに気づく。もし氷河時代に黒海とエーゲ海の水位が共に低下して黒海が淡水湖になっていたとしたら・・・。そして氷河時代が終わってエーゲ海の水位が上昇し、淡水化し水位が下がった黒海へ塩分に富んだ海水が洪水のように流れ込んだとしたら・・・。

 こうした洪水が歴史時代に実際に起こり、それがノアの洪水伝説のモチーフになった!そんな作業仮説がふたりの海洋地質学者ウイリアム・ライアンとウォルター・ピットマンによって提唱された。彼らがどのようにしてこのような壮大な作業仮説を構想したかについては、物語風に書かれた彼らの著書がある[1]。彼らの仮説は気宇壮大であるが、海洋地質学だけでなく、人類史、農耕文明史などさまざまな分野に対する従来の見解の見直しを迫るものであり、テレビ番組などを含めて繰り返しメディアで取り上げられてきた。

 ノアの洪水伝説の舞台が黒海だったという彼らの仮説は多くの人々を驚かせた。しかもそれが発生したのが約7000年前であり、それまでに人類は淡水化した黒海周辺で農耕を始めており、洪水から逃れた人々がこの事件を伝説として子孫に伝承していった・・・。彼らの仮説は推理小説さながら、歴史時代のロマンへと人々を駆り立てていった。

 そうした仮説の検証は、まず彼らが根拠とした海洋地質学における証拠の検証が必要だ。まず、彼らは黒海の海底地形を調査し、現在は水面下に没している海底谷の存在を発見している。彼らは、この谷が黒海が淡水化して水位が大きく低下したときにできたものであるとした。また、黒海の海底堆積物を掘削し、水位が低下したときに地表に露出したことを示す地層を発見した。さらに、この地層を覆って海水の進入によって湖水の性質が変化したことを示す貝類化石を発見している。こうした証拠が彼らが構想した洪水仮説を裏づけるものである。

 しかし、すべての海洋地質学の研究成果が彼らの仮説を支持するものではありえない。カナダの研究グループであるAksu et al.(2002)は、マルマラ海における反射法地震探査を行って、この海域の地層の堆積の様子を調べ、ライアンとピットマンの仮説に矛盾するデータを突きつけた[2]。彼らによると、マルマラ海の水路の出口付近にはデルタでみられるような海側に傾斜した(オンラップした)地層が発達しており、こうした地層は、過去においてずっと黒海からエーゲ海へ向けて水の流れがあったことを示唆している。すなわち、黒海の水はいつも黒海からエーゲ海へと流れていたのであり、ライアンとピットマンが考えたような洪水のような逆流はなかったというわけである。

 さらに、カナダの研究グループは、マルマラ海から採集した地層に含まれる渦鞭毛虫化石を分析し、この地域がずっと塩分濃度の高い状態にあったことを示している。この結果によると、黒海の水は人々が農耕に利用できるほど塩分濃度が低くなってはいなかったことになり、洪水の前に黒海の水を使って農耕文明が発達したとするライアンとピットマンの仮説とは明らかに矛盾する[3]。

 一方、ライアンは、黒海の海底地形や地質学的データについて、これまで旧ソ連やロシアの研究者が行ってきた文献を詳しく取り上げて、自説を擁護しようとしている[4]。

 はたしてノアの洪水仮説の舞台は黒海だったのか。Askuらのデータ[2], [3]によれば、マルマラ海のデルタ堆積物の証拠はノアの洪水仮説にとっては致命的にもみえるが、Ryan et al. (2003)は、こうした挑戦に対し、大局的な地質学的データはこの仮説に符合していると豪語している[4]。その答えは、今後の黒海周辺の海洋地質学的研究によって判定が下されるだろう。

[1] ウイリアム・ライアン、ウォルター・ピットマン(2003)ノアの洪水、集英社。
[2] Aksu, A.E. et al. (2002) Persistent Holocene outflow from the Black Sea to the Eastern Mediterranean contradicts Noah's Flood hypothesis. GSA Today, 12, no.5, 4-10.
[3] Mudie, P. J. et al. (2003) Late glacial, Holocene and modern dinoflagellate cyst assmeblages in the Aegean-Marmara-Black Sea corridor: statistical analysis and re-interpretation of the early Holocene Noah's Flood hypothesis. Rev. Palaeobotany and Palynology, 128, 143-167.
[4] Ryan, W. B. F. et al. (2003) Catastrophic flooding of the Black Sea. Ann. Rev. Earth Planet. Sci., 31, 525-554.