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エッセイ


メタンの夏

 今から五五00万年前の出来事である。恐竜絶滅事件後徐々に寒冷化しつつあった地球で、急激な温暖化が起こった。この事件で地表気温や海水温は五〜七℃上昇し、深海底では有孔虫という微生物が絶滅した。大量のメタンガスが海洋底から噴出したのが原因であるという説がある。

 一九九七年、深海掘削プロジェクト(ODP)で採集された、北西大西洋の深海底堆積物に、この温暖化事件が記録されていた。このコアには、堆積物の組成が周期的に変化したことを物語る縞々が刻まれていた。その解析を行った米国の海洋学者たちは、地層の縞々を時計の時刻刻みマークとして使えることを見いだした。地球の公転運動が規則的に乱されることによって、地球の受け取る日射量が規則的に変化する。地層の縞は、そうした要因による環境変化を記録していたのである。

 縞々時計によって、メタンガスの放出が数千年という時間スケールで起こったことが読みとれた。だとすると、メタンによる温室効果によって、わずか数千年で地表温度が約五℃も上昇したことになる。その変化率は、人間活動による化石燃料の消費がもたらす地球温暖化に匹敵する。

 その原因として現在有力視されているのが、地球内部からの大量のメタンの放出である。近年の深海底探査によって、大陸棚などに大量のメタンを含む層が発見されている。海洋底堆積物は、高い圧力下におかれており、温度が低いこともあって、これらのメタンは固体状で存在している。五五00万年前の温暖化事件では、海洋底堆積物に含まれていたメタンが融けだして大気中に放出されたらしい。この時代の有孔虫の遺骸の炭素同位体比の変動から、放出されたメタンは一五00ギガトンという莫大な量であったと見積もられた。これも人類の化石燃料の消費量の総量に匹敵する。この事件は、人類と地球の未来を考えるうえで、多くの示唆を与えるように私には思われる。

 もうひとつ気になるのは、なぜ地中のメタンが突然大量に吹き出したかという疑問だ。この問いに対する答えはまだない。私たちはまだまだ多くのことを地球史から学ばなくてはならない。