岐阜大学教育学部理科教育講座(地学)
理科教材データベース
古第三紀の突発的温暖化事件(PETM)にともなう
海洋の酸性化
2005年6月21日

 今から5500万年前の古第三紀暁新世(Paleocene)と始新世(Eocene)の境界で、地球の気温が急上昇した。このときの赤道域の気温上昇は5度、極域で9度、深海の水温は4-5度上昇したと見積もられている。この温暖化事件は、英語のPaleocene-Eocene Thermal Maximumの頭文字をとってPETMと呼ばれている。この急激な温暖化は、北大西洋の海底に蓄積された大量のメタンハイドレートが海洋底拡大にともなう大規模火成活動で加熱されて、メタンガスとして放出されたためであるという説がある。カリフォルニア大学サンタバーバラ校の海洋地質学者J.C.ツァーコスらの研究グループは、最近科学雑誌「サイエンス」に発表された論文で、この温暖化事件によって海水が酸性化したことを示す証拠を提示した。

 現在の海洋は炭酸塩鉱物が過飽和状態にあるが、海水からの炭酸塩鉱物の生成は、円石灰藻、有孔虫などの生物が炭酸カルシウム骨格を形成することによるものである。生物活動でつくられた炭酸カルシウムはゆっくりと海洋底へ向かって沈降していくが、ある深度に達すると圧力の効果によって、海水が炭酸カルシウムに不飽和となり、炭酸カルシウムの溶解が起こっている。この溶解が起こる深度は炭酸カルシウム補償深度(carbonate compensation depth)といい、略してCCDと呼ばれている。

 いま大気中の二酸化炭素濃度が何らかの原因で急増すると、二酸化炭素の一部は海洋に溶け込んで、海水の酸性化が引きおこされる。海水が酸性化すると、炭酸カルシウムが溶解を始める深度(CCD)が浅くなって、それまでに海底に蓄積された炭酸塩岩が溶解し、海底堆積物に炭酸カルシウムが蓄積されない領域が拡大することになるというわけだ。

 ツァーコスらの研究グループは、古第三紀の突発的温暖化にともなってCCDが浅くなり、海底堆積物に炭酸塩鉱物が蓄積されなくなったことを明らかにしようと企てた。こうした研究を行うには、地理的に狭い範囲で水深の異なる地層を確保してCCDの変化を深度ごとに明らかにする必要がある。彼らはこうした研究を行う場所として南大西洋のワルヴィス海嶺に目をつけ、海洋底掘削計画(ODP)第208航海で、近接する5地点においてボーリングコアを回収した。それらは水深が2700mから4700mに達するものである。

グラフ  得られたコアの解析によると、PETMの発生直前までこれらの地点では炭酸塩鉱物が蓄積していたが、急激な温暖化の発生直後からは炭酸塩鉱物は含まれなくなり、粘土層が蓄積していることが示された。粘土層の厚さは水深とともに変化し、もっとも浅い地点では5センチ、もっとも深い地点では35センチであった。ツァーコスらは炭酸塩鉱物の炭素同位体比の分析も行って、こうした変化に対応して炭素同位体比も負の値へとシフトしていることを示している。

 PETMの原因として海底に蓄積されたメタンハイドレートが融けだしたとする仮説が提示され、炭素同位体比の変動から放出されたメタンの量が炭素量にして1500ギガトンであると見積もられていた。ところが、今回の解析で海水の酸性化にともなってCCD深度が約2000メートル上昇したことが示され、こうした変化を引きおこすのに必要な二酸化炭素は炭素量に換算して4000ギガトンと推定された。この値は従来の推定値を大幅に上回るものであり、推定値の妥当性は今後の課題である。

 この研究は、現在人類が直面している化石燃料の放出にともなう地球温暖化問題に対して、ひとつの将来予測を与えている。まず化石燃料の放出によって海水の酸性化が起こり、CCDの深度が浅くなって、ひいては石灰質の骨格をつくる生物の絶滅を引きおこす可能性がある。化石燃料の蓄積による海水の酸性化は、まず海洋底の炭酸カルシウムの溶解を引きおこす。その後、岩石の風化によって重炭酸イオンなどが供給されて海水は中和されていくが、そうした反応が起こる時間スケールは数万年といった長い年月を必要とする。いずれにしも、化石燃料の消費による大気中の二酸化炭素の蓄積量が今後も増大していくとすれば、これは惑星スケールの化学実験ということになるだろう。


関連記事=大規模海底火成活動にともなってガスハイドレートが大量に融け出した!